以下はこちら(武富健治先生が小山田圭吾さんの問題についての質問に答えてくださいました。 - Togetter)にまとめた武富健治先生にお忙しい中、深夜に及び対応いただいた対話に対する回答になります。

(リンクを知っている方限定公開としています)

 

・お時間頂いて何度も記事を読み返し色々と考えました。結果的には『QJ』誌の記事をベースにかなり昔から私は様々なことを考えているので、こちらの記事に問題意識がなかったような発言は取り消させてください。武富先生は太田出版の立ち位置等教えてくださっていますが、私は残念ながら共有できる友人もいなかったのでざっぷりと浸かっているかと言われればそうでないですし、27歳なので歴史的な認識はかなり誤認もあるとは思いますが、『QJ』誌も特集によっては買っていますし、『エロティクスF』の単行本なんかは結構持ってる方だと思います。なので、適切な言葉かは分かりませんが汚いものを突き付けることによるプロテストという理論は理解できますし、私の中でも大事にしているところです。なので、『QJ』誌の実在のいじめを面白がるような姿勢には違和感を覚えつつ、今まで留保していましたし、改めて読むことで『QJ』誌が面白がる風を装いながら問題提起をしているのではないかと疑うことは出来るようになったものと考えています。

 

・以上の通り、『QJ』誌に対しては少し認識を変えた部分もあるので、以下は武富先生の「北尾氏の発言によって急激に変化された、何らかのスイッチが入った、その理由」についての質問への回答とさせてください。私は文章のプロではありませんし、自己を見つめてそれを文章にする作業は非常に困難なものでした。非常に長く整理も不十分で、それでいて満足のいく回答になっていないことと思います。これは予防線と取られても仕方ない発言だと思いますが、武富先生に限らず質問された場合誠実に答える準備はありますので、その姿勢で文章の巧みさに代えさせて頂ければ幸いです。また、以下は私の好きな人にはこのようにあってほしいというエゴから来る文章だと思います。ただ、それは小山田さんやいわゆるサブカルの一ファンとして許されて然るべきものだと思っています。

 

・私が北尾さんの記事に対して感じたものを現段階で言語化できた部分までですがまとめると、①ほっこりとしたエピソードとして語ること自体への違和感、②小山田さんがオリパラを引き受けることが俄かには信じがたい行為とすることへの疑問、③インタビューの当事者の北尾さんが自分はダメ社員という前置きを置きながらファンを誘導するような記載をすることへの懸念、になります。

 

・まず①についてです。武富先生も元の記事も含めほっこりしたと仰っておりますが、やはり何度読み返しても私単独で読解した時にはそのような感想を抱けませんでした。その理由をTwitterというメディアの特性上出来るだけ短く述べるならば、全体に振りまかれた(笑)の存在です。北尾さんは天声人語の「《得意げに》語っていた」という解釈には絶対にならないはずと述べていましたが、私は『QJ』誌での書かれ方をまさにそのように解釈してしまいました。小山田さんの声明もまた、もちろんメディアに発信するものですので批判に応える書き方にならざるを得ないとは思いますが、『QJ』誌掲載分を始めとした記事を同じように解釈した結果だと読み取れると考えています。

 

・『QJ』誌に描かれる小山田圭吾少年の、奇異な人をおもちゃとして扱っていたところから、徐々にその内面に興味を持つように変化していったその心の動きというのは、良い意味でも悪い意味でも和光学園が推進するインクルーシブ教育の一つの結果だと私は思いました。そしてそこにはほっこりとしたものが隠れていると言われればそうかもしれません。ただし「得意げに語っていた」という解釈を前提としてですが、おもちゃのように扱うところから抜け出ていない小山田さん、そしてインタビューに関わった皆さんの姿が『QJ』誌には記録されているように私は感じました。

 

・おもちゃのように扱うこと自体も私は簡単に否定できるものではないと思っています。これはこれで物議を醸す表現だと思いますが、知的障碍をお持ちの方との人間関係は少なからず特殊にならざるを得ないと思いますし、ポジティブなイメージで使われる天使とおもちゃとの境界をきっちりと定めることは難しいと思います。先ほど小山田さんらをおもちゃ扱いから抜け出せていないと言いましたが、ではその抜け出した先に本当に答えなんてあるのだろうか、そのような場面で前面に立ったことのない私には想像もつきません。そもそもそのような扱いは何も障碍者と健常者の間にのみ成立するものでは無く、「いじり」「かわいがり」として受け入れられるケース(これを周囲の人が本人が良いと言っているのだから是とすることにもまた議論があると思いますが)もあると思います。ただそれでもなお、このような扱いが人権の観点では危険な思想とも隣接した考え方であることは間違いないと思います。これらの点について考えることが、外山さんが仰っている「いじめ、ダメ、絶対」的な語り方の突破を試みることの内の一つであると私は思いました。そして、そのことについて考えるためのエピソードとしては、小山田さんのインタビューは多義的で提示する意義があるものだと思いました(私たちが考えるための材料としてクラスメイトを消費することについても議論があると思いますが、世間からの批判覚悟で発信する分には私は言論の自由を貫きたい立場です)。

 

・例えば箱ティッシュのエピソードは、そのコミュニケーション自体がクラスメイトの社会との接続を作り出しており、彼が清潔な暮らしを送れるようになったという実利の面でも助けにもなっているとも思いました。清潔という実利の面を除いて、小山田さんを通じた社会との接続の一点だけでも、安易に否定できないと私は思います。一方で、その意図も十分に汲み取れないであろう相手に、名前を前面に書いて首に掛けさせること自体は明らかな辱めであり、「ちょっといい話でしょ?」「(笑)」のディティールも含め醜悪であると私は感じました。そんなエピソードを『孤立無援のブログ』では意図的に排除されたほっこりとした読み物として提示する北尾さんに私は違和感を覚えました。違和感の理由として、これまで述べた通り私にはほっこりとしたエピソードとして解釈できなかったということももちろんありますが、ほっこりエピソードとして解釈することは、この難しい課題をありふれた暖かないじめの超克の読み物にしておもちゃ扱いの二面性を包み隠し、『QJ』誌が元々与えていた読者の考える機会を奪う行為だとも思いました。年賀状にしても、『QJ』誌が打ち出していたのは「いじめられてた人のその後には、救いが無かった」ということであり、仲良しだったことの物的証拠ではなかったのではないでしょうか。私にはそのようにしか読み取れませんでした。

 

・北尾さんは「あと、こういう微妙な事柄を書くと「なんでこの文章をそういう意味に受け取るの……???」という人が必ず出てくるので、しつこいくらい繰り返しておきますが、私はこの文章で「小山田圭吾さんはいじめ加害者ではない」と言っているわけではありません。」と述べていますが、私はこの箱ティッシュに限らず、北尾さんがクラスメイトとの友情を感じたとする全ての内容に疑問を感じています。また、北尾さんが「小山田圭吾さんはいじめ加害者ではない」と言ったとして異議を唱えているわけでなく、クラスメイト側の視点を欠いた状態で安易な友情物語にすることに強い懸念を覚えたのです。

 

・細かな点ですが、「読み物」という表現も非常に気になりました。特に北尾さんのブログでは徹底的にクラスメイトが背景化されているように私は感じました。小山田少年のような過去を過ごした人を励ますような物語はあるべきだと思います。あるいは被害者の方も含めたしっかりとした調査を行ったノンフィクションとして、世間の批判を越えて「いじめ、ダメ、絶対」を乗り越えるためのヒントを提示してくれるものには期待するところです(『QJ』誌はこちらを意図し、失敗したと考えることが出来ると思います)。ただ、被害者も加害者もまだ現実に生きている世界の出来事を「読み物」として提示することは、「いじめ、ダメ、絶対」を乗り越えるという難しい課題に対して慎重になるべきなのではないでしょうか。寡聞にしてぱっと思い付きませんが、もちろんそのような文学にも優れたものがあるとは思います。ただ、私は北尾さんのブログにそのような慎重さは感じ取れませんでした。

 

・以上はこれからの②の内容にもつながるのですが、北尾さんは2つ目の記事の文頭で「(小山田さんが様々な記事で語ったいじめ暴力行為)事実だとするならば、オリンピック・パラリンピックの開閉会式クリエイティブを小山田圭吾さんが一旦引き受けたのは、自分にとって俄かには信じがたい行為です。」と述べています。私は小山田さんの暴力的な行動も、非暴力的な行動も、それらを「得意げに語った」こともその全てが大きな問題をはらんでいると思います。私は個人的には「得意げに語った」ことに対しては不快だと思う立場ですが、上述の通り単純に否定できるものではないと考え、意見を留保しました。一方で、北尾さんは小山田さんとクラスメイトが最終的に友情を獲得するに至ったと考えていると述べています。もちろんそのクラスメイトとの間にも激しいいじめがあったこと、もう一人の別のクラスメイトが存在したことについても説明していますが、いずれにせよそのようなストーリーを信じながら、小山田さんの行動を俄かに信じがたい行為であると断罪するのは誠実さを欠いた発言なのではないでしょうか。友情物語抜きにしても、「いじめ、ダメ、絶対」を乗り越えるために、世間にプロテストするつもりで色々な方のプライバシーも含む形で記事を発信したのであれば、世間からオリンピック・パラリンピックの理念として提示されたものに対して疑義を呈する大きな責任が伴うはずだと私は思ってしまいました。北尾さんがオリンピック・パラリンピックの理念に沿わないとされた小山田さんの行動とは一体どれのことなのだろうかと私は思いました。

 

・また、天声人語の「小中学校の頃、同級生や障害者にひどいいじめをしていた。20代半ばになって、それを雑誌で得意げに語っていたことが問題となった」との文は単に事実関係の羅列ととることもできるとは思いますが、私は「得意げに語っていたことが問題となった」というところが辞任に至った本質的な問題だという含意のあるものだと私は考えていますし、上述の不快に感じたとの記載の通り同意します。だとするならば北尾さんは小山田さんの辞任の直接の当事者の一人だとも思い、小山田さんがオリンピック・パラリンピックの仕事を引き受けたことを非難することは、やはり小山田さんやクラスメイトをはじめとした様々な方への誠実さを欠くものだと私は思いました。もちろん、北尾さんもこのようなブログの発信にあたっては、当事者として批判を浴び得る立場(現に浴びている)であり、色々な恐怖などあったと思います。それでもなおこのような繊細な問題を取り扱った者として、小山田さんが非常に苛烈な非難を浴びる要因を作った一人として、誠実であってほしいと私は思いましたし、そうでないならばせめて沈黙を貫くべきだと思いました。それは③の観点も併せて北尾さんのブログに誰かを断罪する意図はない、事実関係と今思うことを淡々と書くとされていながらも、確かな断罪と誘導の意図を感じたからでもあるかもしれません。

 

・続いて③に入る前に、武富先生が具体的に何を指してほっこりと仰ったか分かりませんが、例えば私が醜悪だと感じたと述べた箱ティッシュのエピソードをほっこりと感じており、同じ様に考える方が多数いるのであれば、③には私に間違いの部分も多数あると思います。ただ私の想いとして記載します。私は最初に北尾さんのブログとその読者の反応を見た時に、次のような懸念も覚えました。まず北尾さんのブログに対しては、全文を読むことを推奨するのにも関わらず最初に全文を提示しない点をアンフェアだと思いました。また、その載せられた全文は小さな写真であり、私のデスクトップPCの環境でも2倍以上に拡大しないと注釈含めて読むことが出来なかったことに、全文を読むことを推奨する上で必要な配慮が全く感じられませんでした。

 

・更に、ここからは特に悪し様に見ているところもあろうかと思いますが私の想いとして敢えて記述すると、今回の件で落胆する小山田さんのファンに対して、上述の『孤立無援のブログ』が「鬼畜に仕立て上げた」記事であると声明を出し、この事件を報じた朝日新聞社を始めとするマスコミに対して「(元記事にあたったのか)甚だ疑問です」とかなり強い疑義を投げつける一方で、暖かなエピソードであることをことさらに押し出すことは、文学の力を使ったかなり強い誘導であると感じました。武富先生も指摘された通りTwitterという巨大すぎる危険な武器を意識して北尾さんが使用したように私は感じました。武富先生のように私の心の内で信頼できる方が、全文を読んでほっこりしたと仰っているのですから、これは私の勘違いも多分に含まれているのでしょう。ただ当時の私には北尾さんの記事だけを読んで何かを発信している方が多数いるように思えましたし、Twitterという危険な武器の力を思うと少なからずそのような人が存在しているように未だに思っています。私もまたTwitterという危険な武器の力に魅入られた者の一人だったことは後悔しています。ただ、それでもなお、Twitterという武器の力は人によって異なり確かに強い力を発揮しやすい人は存在していて、そのような人はより慎重に取り扱うべきだという思いを持っています。

 

・小山田さんを「うんこバックドロップ」といったセンセーショナルな言葉で追い詰めることには私も間違っているという思いを持っていますし、それを食い止めるためにその力を行使するというのは一つ正しい行動だと思います。ただ①で述べた通り、私は北尾さんの解釈はこの難しい課題へのどちらかといえば思考停止を促しうるものだと思いましたし、クラスメイトの見解を新たに調べることもなく友情物語として押し出すことは慎重にならねばならないとも思いました。以上を踏まえて、小山田さんを助ける必要があると思いながらも、当事者の一人としてTwitterを行使するならばもっと慎重にならねばならないのではないかと思いました。

 

・また『孤立無援のブログ』への行動に対してははっきりと疑問を持っています。私は以前まさに小山田さんに関する記事でこのブログを知ってから折に触れて読んでいるのですが、小山田さんの記事はごく一部にすぎません。確かに著名人を問い詰めるような内容も多いですが、多く取り上げているのは、三浦基さん、宮沢章夫さん、松江哲明さんなどでその姿勢は一貫したものだと思います。また書評や観劇などの内容も多く、私のような若者とは違ってまさに90年代以前のサブカルを通過している方だと私は思っており、粗暴な物言いもそこから出てくるように思えました(ここは完全な推測です)。このような読者の声を「いじめ、ダメ、絶対」に打ち勝つために無視すべきだというのは当然あってよい対応だと思います。ただ、北尾さんが「(小山田さんが様々な記事で語ったいじめ暴力行為)事実だとするならば、オリンピック・パラリンピックの開閉会式クリエイティブを小山田圭吾さんが一旦引き受けたのは、自分にとって俄かには信じがたい行為です。」という目線なのであれば、当事者としてこのような声にこそ耳を傾けるべきなのではないかと私は思いました。また、世間にプロテストするために汚いものを敢えて抽出する姿勢(私は悪質な切り取りだったとは思いませんが)をあのように否定することは、そのまま彼らや私も含めたそのような姿勢をとることで何とか生き抜いてきた人間を否定する発言だと感じました。

 

・以上が北尾さんの発言で私に「スイッチ」が入った理由をできる限り述べたものになります。私は小山田さんがオリンピック・パラリンピックの閉開会式クリエイティブを務める姿を見たかったのです。METAATEMのリリースを心待ちにしていたのです。それが中止になったのは小山田さんとその周囲が今まで何度も行われてきた指摘に目を瞑っていたことが原因だと思います。ただ、それが外山さんの仰るような問題意識を貫くために行われていたならば仕方ないとも思えました。しかしながら、ここは武富先生と見解を相違するところからもしれませんが、北尾さんの発言にそのような問題意識を貫く姿勢を私は見出せませんでした。

 

・最初に述べた通り、今回武富先生に返信するため、この土日中『QJ』誌の記事を始めとした様々な記事、声明を読み返しました。そして、『QJ』誌の記事については見直す部分もありました。ただ、そこに見たのはおもちゃ扱いを抜け出せない人間の姿、そんなおもちゃ扱いが無ければ鼻をかむことすらできない障碍者の哀しみ、そして「いじめられてた人のその後には、救いが無かった」ということであり、(当時生まれたばかりの私が言うのは憚られますが)90年代らしい諦観でした。そしてそれは、私が宅間守に対して感じることと似ています。